聖徳太子立像
長光寺の始まりは、推古天皇の御代、聖徳太子がお妃と共に「老蘇の森」(長光寺から北東4キロ地点)に仮宮されていた時、妃が産気づかれ御難産になられました。
そこで太子は「仏法」を信じ御仏の御加護を一心に祈りなさいとお諭しされました。
妃はひたすら諸仏の慈悲を仰がれた所、西南の方より一人の童子が現れて「汝が願いは、正しく観世音が救い給う」と言って飛び去って行きました。
その後まもなく妃は無事に安産されたということです。
不思議に思われた太子は使いの者に童子の去った後を追って行方を探させました。
すると、南西約4キロの所に山があり、その麓に八尺(3m)の香木(栴檀の一種)と
その香木の根元には同じく八尺の石柱のようなものがあり、青・黄・赤・白・紫の五色に光り輝いていたということであります。
感激された太子が、自らその霊石に手を合わせられると、たちまち光明の中より千手観音の尊像が現れました。
聖徳太子御霊石
御前立千手子安観音菩薩像 ※秘仏は後ろの御厨子の中に安置されています。
太子はのちに、この香木で千手観音像を刻み腹中に法華経・維摩経・勝鬘経の三部のお経を籠めて本尊とされ、この地を転妙法輪、仏教長久の地として、ここに本堂、金堂、法堂、鐘楼堂、僧堂、食堂など七堂伽藍を建て、峰には十二社権現、東には薬師、十二神将、西には弁財天等をお祀りされました。
これが長光寺の始まりであります。
その後、何度も戦火に飲まれ焼尽する所となりますが、この時の霊石は今も長光寺に安置されており、御本尊の『千手子安観世音菩薩』も安産の仏様として親しまれております。
御前立千手子安観世音菩薩の後ろに御厨子があり、秘仏はその中に安置され50年に一度の御開帳となっております。※御開帳の秘仏は、写真撮影禁止です。ご了承下さい。
長光寺のハナノキ
そして此の地を記念する為、霊木(栴檀)の余枝を御宝前に植えられたのが、現在の花の木(ハナノキ)であります。高さ約15m、周囲約3mの巨木で天然記念物に指定されています。
文明七年(1475)灰燼と化し、後に足利義満の計らいで再建するもそれもまた兵火により焼失。
寛永二年(1625)松平定綱の命により復興に着手、宝暦(1753)に玄廣 木食上人に依って再興され寺域を今の一小区域に定め現在に至ります。
長光寺ゆかりの歴史上の人物は、三位中将平重衝・後光厳天皇・織田信長・足利義満・馬淵氏・柴田勝家・玄広木食上人・松平定綱。
関連文献は源平盛衰記巻三十八(鎌倉)・太平記(鎌倉)・東関紀行(鎌倉)・信長公記巻三(安土・桃山)等。